講演会/イベント
2026/04/14
講演会レポート
【10月21日】江戸歴史文化講座 特別講座「江戸琳派の伝統と創造」 河合 正朝 氏(慶應義塾大学名誉教授)
2023年10月21日14時より、慶應義塾大学名誉教授の河合正朝氏による江戸歴史文化講座 特別講座『江戸琳派の伝統と創造』を開催いたしました。
講演会の内容
●江戸琳派
琳派は1972年に東京国立博物館で開催された「琳派」展を一つの契機として、流派の名として広く用いられるようになりました。それと2004年東近美の琳派RIMPA展が、琳派を考える上での大きな展覧会です。江戸琳派という言葉が広く伝わるようになったのは、小林忠先生が監修した、1980年サントリー美術館の抱一と江戸琳派展です。2011年に千葉市美術館で酒井抱一と江戸琳派の全貌という総合的な展覧会があり、さらに2016年、抱一の弟子鈴木其一の大規模な展覧会もサントリー美術館で開かれています。
琳派の技法的特徴として「たらしこみ」があり、装飾的効果を上げるようになっていくのです。この技法は金泥を使ってムラムラになると、墨のトーンのニュアンスを出してとても面白い効果を上げるのです。
宗達の代表作「風神雷神図屏風」が琳派の系譜を形作り、光琳が描き、さらに抱一が描くことで伝統の継承があるのです。そこでは雲にたらしこみが使われています。光琳はそれほど巧くたらしこみを使えないのです。山根先生は宗達の完成作と見なしていましたが、晩年の寛永時代の作風とは異なり、意匠性や空間意識から慶長時代の作品と考えています。これが琳派の正当な系譜を受け継いでいることを主張している作品で、比べますと雲の処理と空間処理が世代毎に変わっています。光琳は宗達ほどの軽やかな雲の効果を使ったたらしこみができず、形式的なものになっていますが、空間の緊張関係は優れています。宗達の伝統性を守った光琳は、そこから乗り越えて自分自身のデザインやテーマを作ることを目指しました。
●光琳・乾山の江戸下がり
光琳は京都の裕福な呉服商の次男ですが、1704年から1709年に江戸に下向します。都に戻り紅白梅図屏風を描きますが、「四季草花図巻」(個人蔵・旧津軽家蔵)は京都で描いて江戸に持って行ったものだと考えます。関東では狩野派や雪舟など、大名の家には雪舟がなければいけないと言われるほど水墨画が好まれていて、宗達風の京都振りの水墨画をもたらしたのです。酒井家や津軽家のために絵を描いていたときに、黒田家の調度に描いた雪村風の波にヒントを得た「波濤図屛風」(メトロポリタン美術館蔵)は狩野派学習に飽き足らず、狩野尚信のスタイルを基本にしながら独自の美意識で描かれたものです。
では光琳の絵が本当に江戸で広まったのか?光琳の絵を江戸琳派の人が理解していたのか?光琳のスタイルを着実に江戸に伝えたかというとなかなか難しい。玉蟲敏子さんは、抱一は吉原の遊女に光琳風を伝えたと書かれている文献を紹介していますけれど、光琳を意識していたとは思いますが、光琳の後に弟の乾山が江戸に来るのです。乾山が盛んに絵を描くのは江戸に来てからのことです。だから江戸には乾山の絵があり、抱一が『光琳百図』のあとに『乾山遺墨』という作品集も出しています。抱一は光琳よりも乾山の作品の方に、直接的に早く接しているのではないかと思われます。乾山は光琳より学者肌でした。
●酒井抱一の登場
江戸において光琳の高い評価が確実になるのは、文化12年をめざして抱一が顕彰事業を行う時です。
実際の光琳学習が明確に出てくるのは風神雷神図や八ッ橋図(出光美術館蔵)ではないかと思います。これはメトロポリタン美術館にある八ッ橋図にヒントを得たものです。銀屛風の効果を光琳は大切にして、琳派研究の第一人者である河野元昭先生は「微光」感覚と仰っています。
抱一は1806年に根岸の「雨華庵」というところに入ります。文化14年、その庵には新吉原大文字屋の花魁・香川を身請けし、雨華庵に同棲します。香川は御付女中・春條(はるえ)と称し、小鸞女史と呼ばれましたが、抱一が梅の花を描いて、小鸞女史が賛を書いた記念的作品があります。
さらに抱一は、若い頃に俳諧・狂歌を嗜んでおり、歌川豊春について浮世絵を描きます。その頃に流行っていた「紅嫌い」という趣で墨摺り、藍摺りの浮世絵を描きます。江戸に新しいスタイルの南蘋派という、長崎から来た新しいスタイルにも抱一は敏感でした。美人画もたくさん描いています。
近代に直接結びついてくるのが鈴木其一です。其一の優れた点は、水墨画と色を一致させたことにあります。水墨画による色の表現を達成したのです。そして、近代の下村観山、速水御舟、中村岳陵、小林古径、前田青邨、山口蓬春らが、琳派から発想した作品を描いています。