講演会/イベント
2025/12/23
講演会レポート
【11月16日】「来迎思想の源流と展開」 入澤 崇 氏(学校法人龍谷大学 理事長)
2025年11月16日14時より、学校法人龍谷大学 理事長 入澤 崇 氏による講演会「来迎思想の源流と展開」を開催いたしました。
講演会の内容
■来迎思想
来迎は臨終の際に阿弥陀仏が迎えに来ることです。死や死者をどう捉えるかということを、古の人々は現代人以上に切実に考えていたようです。阿弥陀仏信仰のなかで、「人としての終末」の理想的な在り方がはからずも構想されました。来迎は往生を可能とさせます。往生は「極楽浄土に往きて生まれる」ことなので、「死者は死んでいない」という思想となります。極楽浄土に往生を遂げた方は阿弥陀仏の心をくみ取り、遺族に常にはたらきかけ、死者と生者はつながりあい、ともに生きている感覚を生じさせます。
インドでは、マトゥラー市のゴーヴィンドナガル遺跡から出土したクシャーン朝の台座銘文に阿弥陀仏信仰の痕跡が確認されます。阿弥陀仏信仰は確実に古代インドに存在したのです。
往生とは、この世の命が終わり、他の世界に生まれることで、もともとは天に生まれるという考えでした。それが大乗仏教の興隆により、仏の世界(浄土)に生まれる考えとなりました。浄土に往生したいと願う人に、仏・菩薩が来迎してくる。来迎する様子を表したのが来迎図です。
■極楽浄土と阿弥陀仏
阿弥陀仏がいる極楽浄土というのは、真実の教えに出会う世界のことです。
阿弥陀仏について語る『無量寿経(むりょうじゅきょう)』では、阿弥陀仏の前身である法蔵(ほうそう)菩薩の誓願が説かれていて、その19番目の誓願に来迎のことが出てきます。『阿弥陀経』にも臨終の際に阿弥陀仏が聖衆とともに現れることが記されています。こうした経典が根拠となり、来迎思想が広まりました。なお、来迎するのは阿弥陀仏だけではありません。他の仏・菩薩も来迎します。しかし、阿弥陀仏の来迎が主流となるのです。
浄土教の進展や阿弥陀信仰の広がりにおいては中国が重要です。『観無量寿経』はインドの成立ではなく、中国で編集されたもので、釈尊が韋提希夫人(いだいけぶにん)のため「阿弥陀仏の極楽世界に生まれる法」を示した経典です。16の観法(かんぽう)を設け、前段の13観で観想の方法、後段の3観で九品(くぼん)往生が説かれました。人間の能力・資質・行為によって人間を上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)に分け、それぞれをさらに3つずつに分類しています。来迎の仕方も9つのパターンがあることが示されており、この『観無量寿経』は造形面において多大なる影響力がありました。
■道綽・善導と源信
浄土教の隆盛において、とりわけ視覚面で大きな役割をはたしたのが道綽(どうしゃく)と善導(ぜんどう)です。唐の時代、道綽は浄土教の伝道につとめました。道綽が広く浄土教を流通させた第一人者と讃える文献もあります。浄土の絵画表現にも通じていたようです。同時期、敦煌(とんこう)では西方極楽浄土の図像化が進展していきます。そして、唐から朝鮮半島を経て日本に浄土図が伝わっていったのです。
さらに影響力のあったのが善導です。善導は『阿弥陀経』の書写を繰り返し、浄土の様相を次々と絵にしました。わが国の法然は善導の影響を大きく受け、日本で浄土宗を開きました。
わが国の代表的な浄土図としては智光(ちこう)・清海(せいかい)・当麻(たいま)曼荼羅(まんだら)などがあります。当麻の郷で生まれた源信(げんしん)が執筆した『往生要集』は、当時の貴族に多大な影響を与え、浄土教が広まっていきます。臨終は西方極楽浄土に行くことができる往生の時なので、大きな喜びととらえたのです。
そして、来迎図は阿弥陀三尊だけではなく、来迎する人数が増えていき、表現が豊かになりました。源信がつくったといわれている『二十五菩薩和讃(わさん)』の文章と、来迎を描く絵画資料の表現はほとんど一致しています。平等院鳳凰堂には阿弥陀如来を中心にして、周囲に雲中供養菩薩がありますが、もしかしたら二十五菩薩を表現したものかもしれません。
また、山越(やまごえ)阿弥陀図や、迎講(むかえこう)というドラマも特徴的です。絵画や彫刻、演劇を通して、来迎を知らせようとしたことにより、阿弥陀仏の来迎が広く浸透していくことになります。
■親鸞の来迎観
親鸞は「臨終まつことなし。来迎をたのむことなし」と、来迎を否定するかのような表現をしています。親鸞は来迎を可能にする阿弥陀仏の誓願(本願)そのものに力点を置いたのです。本願の心を受容すれば、仏になることが決定づけられ、命終とともに浄土往生を遂げることができるのだから、臨終を待つことも来迎を期待することも全く必要ないと示されたのです。臨終よりも「平生(へいぜい)」を重視したのです。言うなれば、「臨終来迎」から「平生来迎」へと大きくシフトしたのが親鸞でした。仏教各宗派で来迎の捉え方が異なるということも押さえておきたいものです。
私たちは「生死」をどのように捉えるべきなのか。危機的時代の中にあって、そのことが今改めて問われています。とりわけ「死」の問題は永遠の課題です。私たちの暮らしは死者(先祖)の営みの上に成り立っています。過ぎ去りし世の死者が「来迎」をどのように受け止めていたのか、それは「死」というものをどう受け止めていたかということに関わります。宗教は「死」を見つめることから生まれています。阿弥陀仏の来迎をリアルに感じとっていた時代の人びとの心には阿弥陀仏のはたらきが確実に及んでいます。さて翻って、現代は?死を浄土往生として捉える浄土教は果たして「現代の仏教」になり得ているでしょうか?「尊い肉親の死」「やがて来る自分の死」そして「戦争や災害による大量の死」をどう捉えるのか、仏教を基軸にしつつ現代の地平で問い直す必要があるように思います。