講演会/イベント
2025/08/20
講演会レポート
【8月9日】「仏像につかえる存在―脇侍・眷属・随侍像」 川瀬 由照氏
2025年8月9日14時より、早稲田大学文学学術院 教授の川瀬 由照氏による講演会「仏像につかえる存在―脇侍・眷属・随侍像」を開催いたしました。
講演会の内容
●仏像の見方と随侍像−独尊と三尊像、主尊と随侍像
仏像を理解する際には、まずその構成形式に注目する必要があります。独尊像は単体で信仰の中心となりますが、三尊形式では中央に主尊、左右に脇侍を配します。日本では特に三尊形式が好まれ、阿弥陀三尊や薬師三尊など、教義に応じた多様な組み合わせが成立してきました。しかし日本でも古代においては、中国と同様に脇侍像が特定の名称を持たないものが多くみられ、脇侍像の形状や尊名が文献や図像から特定できない場合も少なくありません。じっさい法隆寺金堂釈迦如来像の脇侍が薬王・薬上と記されるのは、鎌倉時代初期の『太子伝私記』が最初と考えられていますし、また薬師寺薬師三尊像の脇侍について日光・月光の名称が登場するのは、平安時代・長和4年(1015)の『薬師寺縁起』が初出とされています。
三尊形式にはいくつかの組み合わせの定型があり、釈迦三尊像だけでも、梵天・帝釈天、普賢・文殊、観音・弥勒、薬王・薬上など、複数のバリエーションがあります。ただし現在三尊形式として伝わっている像であっても、主尊と脇侍の制作年代が異なる場合もあり、半蔵門ミュージアム所蔵の醍醐寺伝来の不動明王像と二童子像も、もとは一具ではありません。このように寺院の歴史のなかで脇侍や眷属があとから組合わされる例というのも珍しくはないのです。
さらにこの「仏像のセット性」という問題は、像の「数」とも関わりがあり、数の規定が造像構成にも反映されます。今回早稲田大学會津八一記念博物館所蔵分6軀が展示されている福島・如法寺伝来の三十三応現身像もその一つです。これは観音が三十三に化身した姿をあらわしたものです。如法寺観音堂内には平安時代のものとされる主尊の観音像が伝来しており、それに追加されるかたちで南北朝時代に三十三応現身像が造られました。多数の随侍像を造ることは決して容易なことではなく、その背景には寺格の上昇や堂宇の拡張など、寺の歴史において大きな動きがあったことがうかがえます。また半蔵門ミュージアムには同じ会津の地でほぼ同時代に造られた法用寺伝来の三十三応現身像のうち梵王身像が所蔵されています。こうした事例は、観音に変化身を付属させる意識が、関東や東北を中心に芽生え、信仰の繋がりとして広がりをみせた可能性を伝えているでしょう。
●瑞像・由緒像・宗派の視点から
仏像を理解するうえで、模造や由緒像、霊像なども重要な視点になります。ここでは①善光寺式阿弥陀三尊像、②五台山文殊像、③不動明王像と眷属像、④大仏殿様四天王像、⑤大倉薬師堂十二神将像、⑥東寺講堂大日如来坐像をとりあげます。
まず①善光寺式阿弥陀は、主尊が左手に刀印を結び、左右に脇侍像を従える三尊形式を特徴とします。本尊は秘仏のため拝観することはできませんが、その姿を忠実に写した「お前立ち像」が伝わっており、これを由緒として後世に同形式の阿弥陀三尊像が制作されました。
②五台山文殊像は、文殊菩薩とその眷属によるひと組の構成からなり「渡海文殊」や「文殊五尊像」とも呼ばれます。文殊の聖地である五台山から、文殊と四人の眷属が海を渡ってくる情景をあらわしたものです。このセット性を理解していると、たとえば獅子の手綱を引く優填王像や一行を先導する善財童子像が単独で発見された場合でも、それらが五台山文殊像の一部を構成した可能性を想定することができます。
③不動明王像は、日本において最も多く造像された仏像のひとつです。不動明王にも眷属があり、たとえば京都・東寺講堂の例のように、降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王と共に安置されると「五大明王」と呼ばれます。このうち不動明王と大威徳明王は単独で造像されることがありますが、ほかの三尊は単独ではほとんど造られません。そのため降三世明王、軍荼利明王、金剛夜叉明王が単独で発見された場合、五大明王の一部であった可能性が高いと考えられるのです。また不動明王は独尊形式が最も多く、図像にはいくつかの約束事があります。頭上に頂蓮と呼ばれる蓮華をのせ、髪を総髪とし、両眼を開いて上唇で下唇を噛み、両端の牙を下方に出す姿を「大師様」、髻を花びら状に結った莎髻を頭上に乗せ、髪は巻髪とし、左目は下、右目は上を向いて、左牙を下方に右牙を上方に向ける姿を「不動十九観様」と呼びます。ほんらい不動十九観様は天台系に多く、五大明王では大師様が通例ですが、不動十九観様の不動明王が造形される例もあり、宗派における図像の規定や構成の法則に従いつつも、変化をみせる作例が存在します。
④大仏殿様四天王像とは、鎌倉時代初期に運慶ら慶派仏師によって東大寺大仏殿に造立された四天王像の形式です。その後の四天王像の造形における由緒となり、多くの四天王像がこの姿を継承して造られました。前方に配される持国天像と増長天像には動きがあらわされる一方、後方に配される広目天像と多聞天像は直立に近く、あまり動きがないのが特徴です。肌の色や持ち物にも一定の決まりがあり、一種の瑞像としての性格を具えています。
⑤大倉薬師堂十二神将像は、現在は失われた、北条義時の発願により運慶が造立した可能性も考えられる十二神将像に由来します。関東における十二神将像には、この系統に属すると考えられる作例が数多く確認されます。これらを瑞像として位置付けるには、なお検討の余地がありますが、運慶作の由緒ある像の源流が大倉薬師堂にあった可能性が指摘されています。
⑥東寺講堂には、現在、室町時代に造られた後補の大日如来坐像が安置されていますが、現存する他の作例から当初の姿をうかがい知ることができます。たとえば運慶作と推定される栃木・光得寺の大日如来坐像は金剛界三十七尊を伴い、台座に獅子を配しており、東寺講堂の当初像に依拠して造られた可能性が指摘されています。
●今回の展示作例からー准胝観音菩薩像と二人の従者ー
最後に、現在半蔵門ミュージアムにて展示されている室町時代の絵画准胝観音菩薩像についてみておきましょう。准胝観音は六観音の一尊に含まれますが、作例自体が多くはなく単独で造像される例は稀少です。ただし母神的な性格から、一部において熱心な信仰がもたれました。注目すべきは、主尊である准胝観音と、それを左右から支える二人の従者です。こうした准胝観音像のスタイルは江戸時代に流行するのですが、じつは、この像と同形式の像がほかにも存在します。そのなかには「准胝観音」として誤って認識されているものも少なくありませんが、よく観察すると、主尊の印相が准胝観音とは異なっていることに気づきます。ほんらいこれらは、斗母あるいは斗姥元君と呼ばれる道教の神様であり、道教が准胝観音像のスタイルを模して造形したものと考えられます。半蔵門ミュージアム所蔵の准胝観音菩薩坐像は、その源流を示す貴重な像であり、さらに二人の従者が主尊を支えるという三尊形式という点でも注目すべき作例です。