講演会/イベント
2024/10/20
講演会レポート
【10月20日】「小川晴暘と仏像写真」 名誉館長 西山 厚
2024年10月20日14時より、半蔵門ミュージアム名誉館長の西山厚による講演会「小川晴暘と仏像写真」を開催いたしました。

講演会の内容
飛鳥園は奈良にある仏像写真の聖地、殿堂で、大正11年(1922)に小川晴暘さん(以下、晴暘)が創業した。道路の向かいに奈良国立博物館がある。
姫路に生まれた晴暘(本名は晴二)は子どもの時から絵がうまく、将来は画家になりたいという夢をもっていた。
心臓が悪かったので、高等小学校を中退し、療養も兼ねて、母方の親族が有馬温泉で営む日野写真館でお世話になる。数えの15歳だった。それがなければ写真家にはならなかっただろうから、人生はわからないものだ。
2年後、画家をめざして東京へ出る。と言っても、収入があるわけではないので、丸木利陽の写真館につとめた。
丸木利陽は当時を代表する写真家だった。この写真館に3年つとめ、利陽の片腕と言ってもいいレベルにまで成長したが、徴兵検査を機に21歳で退職した。利陽はその才を惜しみ、「陽」の字をくれた。それにより、晴二を晴陽と改め、のちに晴暘とした。
2年の兵役を終えると(看護兵として医療を学んだ)、雪景色を見るために、東北と北海道を旅した。そこで描いた「雪解けの頃」が、大正7年(1918)、文展(現在の日展)に入選した。絵は独学に近く、実際には写真家として修業していたのだから、晴暘の文展入選は話題になり、新聞にも大きく報道された。
晴暘が看護兵の時に世話をした人がこれを知り、お祝いに友人とともに奈良を案内してくれた。晴暘は奈良の寺々や仏像に深く感動した。
そのあと朝日新聞大阪本社の写真部に就職。大阪へは奈良からも通えることを知り、奈良に引っ越した。
奈良国立博物館の向かいに木暮久子さんの大きな家があり、その中庭の離れを借りた。夫を亡くし、ふたりの子どもと暮らしていた久子さんと、やがて結婚し、そこが飛鳥園になるのだから、縁とは本当に不思議なものだと思う。
久子は鹿の角細工の店を出そうとしていた。その飾り窓に、奈良のお寺や仏像の写真を飾りたいと思った久子は、晴暘に撮影を頼んだ。このとき晴暘は興福寺五重塔と頭塔の石仏を撮った。
その石仏写真を気に入ったのが会津八一だった。会津八一の勧めで春日の石仏も撮った。晴暘の石仏写真は次第に知られるようになり、ファンが増えていった。
それでも晴暘は画家をめざしていた。しかし納得できるものが描けず、苦しむ。そしてついに画家になることを断念。仏像写真に専念することを決意し、朝日新聞を退社して、飛鳥園を創業した。
撮るからにはいいものを撮りたい。いいものとは何か。それは飛鳥、天平の仏像だ。
石仏なら自由に撮れるが、お寺のお堂のなかの仏像は、勝手には撮れない。しかし、お寺のお坊さんに知り合いはいない。どうしたものか。そこに東大寺の清水公俊さんが現れた。公俊は晴暘の石仏写真を気に入っており、それなら東大寺の法華堂の仏像を撮ってくれということになった。いきなり最高の舞台が与えられたことになる。
法華堂の本尊の不空羂索観音像はとても大きい。それを撮るには、高い三脚と脚立、そして足場が必要だった。
そうして上方から撮ったお顔のアップ=写真/飛鳥園提供=が素晴らしい。これはそうではないが、晴暘の仏像写真は右斜め上から撮ったものが少なくない。そう言えば、文展に入選した「雪解けの頃」も右斜め上からの構図だった。この写真をずっと見ていると、いつの間にか、自分もこの位置にまで登って来ているような気になってくる。
法華堂の諸仏の写真は絶賛された。そのあと晴暘は。東大寺戒壇院の四天王像、奈良帝室博物館に寄託されていた法隆寺の百済観音像、聖林寺の十一面観音像、興福寺の阿修羅像、そして新薬師寺の十二神将像(伐折羅像の写真が評判になる)、室生寺の諸仏、法隆寺の諸仏、中宮寺の菩薩半跏像、広隆寺の弥勒菩薩像、薬師寺の諸仏、唐招提寺の諸仏など、次々に撮り続けた。それらの写真は『室生寺大観』『法隆寺大観』などにまとめられていく。
大正13年(1924)11月には、雑誌「佛教美術」の刊行を始めた。源豊宗、安藤更生、会津八一、天沼俊一、濱田青陵らの支援を受けながら、この時期、晴暘と飛鳥園は、間違いなく、仏教美術研究の中心的存在になっていた。
晴暘の写真は、フィルムではなく、ガラス乾板で撮ったモノクロ写真である。
モノクロ写真は光と影でできている。晴暘は自然光で撮る。お堂のなかは暗い。わずかな光を、反射板を使って、仏像へ集めていく。
どこに光を当て、どこに光を当てないか。光の扱いが、晴暘は抜群にうまい。光を集め、この位置からでないと最高の写真は撮れないという、ピンポイントを探し出して、そこから撮る。
作業を進めていくうちに、写真に魂が入る。写真を撮るには撮る者の心の高さが大切だ。それがなければ、どんないい写真機を使ってもいい写真は撮れない。丸木利陽の言葉を晴暘は忘れなかった。
黒バックの仏像写真が晴暘のスタイルであり、飛鳥園のスタイルでもある。
仏像写真は、晴暘によって、飛躍的に、劇的に進化した。

小川晴暘《東大寺法華堂 不空羂索観音菩薩像 左斜側面》 飛鳥園蔵 ©Askaen.inc