講演会/イベント

2024/02/24

講演会レポート

【2月24日】「仏像の魂? 心月輪の魅力」 佐々木 守俊氏

2024年2月24日14時より、清泉女子大学教授の佐々木守俊氏による講演会「仏像の魂? 心月輪の魅力」を開催いたしました。

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講演会の内容

●心月輪が納入された仏像

 心月輪(しんがちりん)は一般に知られている言葉ではありません。仏像や仏像に詳しい人しか聞いたことがないかもしれません。

 この心月輪は、仏像の胸の中に存在する月輪です。月輪とは、心を満月のような円形にかたどったものを指します。ほとけの魂(菩提心)の象徴とされている心月輪が、仏像の納入品となる場合は、木製の円盤・円形の銅鏡・水晶珠(すいしょうしゅ)が用いられています。そこに種子(しゅじ)という、ほとけの性格を象徴する梵字が書かれることがあり、それは月輪種子と呼ばれています。

 ではなぜ、心月輪があるのでしょうか?仏像の中で、心月輪があるものとないものとがありますが、その違いは何でしょうか?

 心月輪がおさめられている仏像で、皆さんが御存知なのは、半蔵門ミュージアムに安置されている真如苑蔵の大日如来坐像でしょう。Ⅹ線撮影写真からも判明しているように、像内に五輪塔や心月輪があることが確認できます。

 この大日如来坐像より以前から、心月輪はつくられていました。例えば、藤原忠実(ただざね)の日記『殿暦(でんりゃく)』によると、春日大社西塔の仏像内に蓮華座をつくり、その上に種子を彫った鏡を立てとあります。これこそが心月輪なのです。

 現存している仏像でいえば、妙法院蔵で、蓮華王院三十三間堂に安置されている千手観音菩薩立像が挙げられます。満月をかたどった納入品に、種子が書かれています。より古い作例では、姫路の円教寺(えんぎょうじ)蔵の阿弥陀如来坐像は、中国・北宋時代の仏像の影響を受けたかのような表情をしています。この像の胸部の内刳り面には円で囲まれた種子が墨書されており、原初的な心月輪にあたると考えられています。そして心月輪で著名なのは、定朝(じょうちょう)作で平等院鳳凰堂の阿弥陀如来坐像です。見えないところまで美しさを表現した美意識の高さもうかがえます。

 心月輪には寝かせているタイプ、立たせているタイプ、球形のタイプがあります。尊像を刻んだものや、仏を描いた版画の束に心月輪をくくりつけているものも確認できます。

●心月輪の典拠

 原文は漢文なのですが、さまざまな文献に心月輪の記述を確認することができます。空海撰とされる『作法次第』には、本尊阿弥陀如来の心月輪の上に秘密真言(呪文)があり、阿弥陀如来を唱え念ずるところに、念ずる人と阿弥陀如来がひとつになることが記されています。真言が心月輪上でぐるぐる旋転することが『作法次第』に説かれていることから、これを"旋転タイプ"と呼んでおきましょう。

 唐の一行(いちぎょう)の『大日教疏(だいにちきょうしょ)』には、「円明(えんみょう)」という言葉が出てきます。この「円明」は心月輪を指すと考えられます。検討していくと、円明すなわち心月輪には"旋転タイプ"の他に、"梵字タイプ"や"球形タイプ"、尊像が描かれた"尊像タイプ"のあることがわかります。また、宇宙を構成する五輪(地・水・火・風・空)のうち、水輪(すいりん)を円明(月輪)と同一視するとみられる記述もあります。

 また、3~4世紀頃の『文殊涅槃経』には、「身内心処に真金像有り。結跏趺坐(けっかふざ)す。正長六尺にて蓮華上に在り」とあるように、古くからほとけの内部に真なるほとけが存在しているという考え方がありました。この「真なるほとけ」という考え方は"尊像タイプ"の心月輪と通じるものかもしれません。

 北宋時代の文献からは、心月輪はまごころのあらわれということが確認できます。清凉寺釈迦如来像のような実作例とともに、文献の記載からの日本への影響も考えられます。

●心月輪の意義

 文献だけではなく、絵画にも心月輪の意義を感じ取れるものがあります。「阿字義」に描かれる男女はいずれも、胸のあたりに「阿」(ア)という梵字が描かれています。この作品は人にも心月輪があることを図解するとともに、詞書には「阿字は大日如来の法身」とあり、種子が悟りの象徴であるとの考えが示されています。

 また、醍醐寺の勝賢(しょうけん)が嵯峨の地蔵堂を供養した際の表白(ひょうびゃく)には、三尺の地蔵を安置し、その「胸の間に秘蔵の肝心を収む」と記されています。「秘蔵の肝心」は密教の根本的な教義で、ここでは密教の秘奥を象徴する物品と判断されます。「胸の間」に納入されるということから、真言や種子を記した心月輪の可能性を考えています。

 この表白は、「木像なれども精霊あるが如し」と続きます。つまり、仏像は人が造ったものではあるけれども、「肝心」をおさめることで生身の仏になるととらえていることがわかります。本当の仏にあいたい、という気持ちがあらわされているかのようです。

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