講演会/イベント

2023/12/09

講演会レポート

【12月9日】「運慶の晩年と死をめぐって」 館長 山本 勉

2023年12月9日14時より、半蔵門ミュージアム館長の山本勉による運慶八百年遠忌記念講演会「運慶の晩年と死をめぐって」を開催いたしました。

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講演会の内容

 仏師運慶の生涯をたどると、京都で活動を始めたことがわかります。次に奈良で、また同じ頃に鎌倉の造像を始めます。奈良仏師といわれますが、3つの仏都で活動したことに注意を払うべきでしょう。運慶の晩年も、この3つの地域を通してながめることにします。

●京都における運慶

 まず京都について、法勝寺(ほっしょうじ)九重塔の造像はとても重要です。法勝寺は白河天皇の願いにより承暦元(1077)年に創建され、6年後に建立された九重塔は院政期のランドマークタワー的存在でした。その阿弥陀堂や塔の本尊は円派仏師の祖ともいえる仏師長勢(ちょうせい)の造像でした。創建時の塔には、大日如来4体と四仏4体の計8体が安置されています。承元2(1208)年に九重塔は焼失しますが、数年後の再建時に四天王像が追加されました。運慶・湛慶(たんけい)父子は興福寺北円堂の諸像完成後、九重塔の造像に参加し、四天王像を担当したようです。

 四天王像の追加については、最勝講との関連が気になります。最勝講とは『金光明最勝王経』全10巻を講讃して国家平安を祈る法会です。宮中最勝講に続き院政期には院の御所でも始められ、最勝王経の経典そのものが本尊になった気配がありますが、元久3(1206)年の後鳥羽院の最勝講では経典と四天王像が新造されました。翌年開創の最勝四天王院とも関係がありそうです。その最勝講本尊厨子内の四天王像は、後嵯峨院の宝治2(1248)年時が湛慶、亀山院の弘安2(1279)年時が湛幸(たんこう)による造像なので、元久時の四天王は運慶作の可能性が高いと思われます。元久の少し前、東大寺の鎌倉再興大仏に随侍した四天王像は、建久7(1196)年に康慶・運慶・快慶・定覚が完成しました。その形式を水野敬三郎先生が「大仏殿様四天王像」と呼称されましたが、これは後世まで継承されます。最勝講本尊厨子四天王像も同形であったと仮定すれば、それゆえに大仏殿様は権威をもった可能性があります。私は従来晩年の運慶について鎌倉との関係を強調してきましたが、後鳥羽院との関係も重要です。その後、運慶の息子湛慶が京都で活躍しますが、それは後鳥羽院政権下における運慶の重い位置を継承したのでしょう。

 また、京都六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)には運慶一門の活動の跡がうかがえ、一門の地蔵信仰との関係も考えられます。静岡・岩水寺(がんすいじ)の地蔵菩薩像は、運慶の弟子である運覚が六波羅蜜寺で造ったもので、その納入品は半蔵門ミュージアムや光得寺の大日如来像に似た納入方法がとられています。六波羅蜜寺や地蔵十輪院、蓮華王院など、平安京東縁の地域は運慶晩年にも意味があったようです。

●鎌倉と奈良

 鎌倉との関係では、源実朝の存在が重要です。運慶は建保4(1216)に実朝の持仏堂本尊となる釈迦像を京都で造り、鎌倉へ送りました。この釈迦像は、実朝暗殺後に北条政子の持仏堂本尊として安置されます。「尼将軍政子」の象徴ともいえる像となったのです。現存作例として貴重なのは、称名寺光明院の大威徳明王像です。実朝の養育係の女性大弐局(だいにのつぼね)が発願した大日如来・愛染明王・大威徳明王のうちの一体であることが納入文書から判明します。実朝に深くかかわる造像でしょう。執権北条義時の大倉薬師堂(現覚園寺)薬師如来像や実朝没後に政子が建立した勝長寿院五仏堂の五大尊(五大明王)も運慶の造像です。晩年の運慶はまさに「鎌倉殿の大仏師」です。この時期の鎌倉では、運慶以外の仏師による造像にも同時期の運慶に近い水準を見ることができます。仏都鎌倉の成長をとらえることも可能でしょう。

 一方、鎌倉に比べると、奈良における運慶の活動は明確ではありません。かかわりあるものとしては、南山城にある浄瑠璃寺の吉祥天像と海山住寺の四天王像、奈良の興福寺西金堂の天灯・竜灯鬼像、円成寺の四天王像を挙げることができます。かつて運慶作の可能性を指摘した浄瑠璃寺旧蔵の十二神将像は近年の修理で運慶死後の安貞2(1228)年の銘文が見付かりました。運慶工房との関係が考えられる西金堂造像もこの時期までかかった可能性があります。

●運慶の死

 運慶は最期の年となった貞応2(1223)年、みずから建立した地蔵十輪院の諸像を高山寺(こうさんじ)本堂に移しました。そして、同年12月11日(太陽暦1224年1月3日)に没します。

 運慶没後に息子湛慶は父運慶と母のために、地蔵十輪院阿弥陀像を造り、水晶珠(すいしょうしゅ)を八葉蓮華に載せたものをその像内に納入したことが記録されています。半蔵門ミュージアム大日如来像にも納入されている水晶製心月輪(しんがちりん)が、運慶から湛慶に継承されたことがわかるのです。

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