講演会/イベント
2023/05/28
講演会レポート
【5月28日】「古代・中世における修験道の足跡をたどる-その教説と実践-」 永村 眞氏
2023年5月28日14時より、日本女子大学名誉教授の永村眞先生による講演会「古代・中世における修験道の足跡をたどる―その教説と実践―」を会場・オンライン併用で開催いたしました。
講演会の内容
●役行者と「山臥」
修験(しゅげん)とは「験」(霊験)を身につけるための修行方法で、「験」を修める行者のことを験者(げんざ)あるいは山臥(やまぶし)と言います。山林斗藪(とそう)などの修行により、法力を身につけたのです。修験は江戸時代において仏教の一派として確立していました。京都の醍醐寺は、真言宗醍醐派の総本山であり、修験道当山派(とうざんは)の法頭でもありました。
修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)は、葛城山(かつらぎさん)に住して、呪術で鬼神たちを自在に使っていたとの記録があります。奈良時代以前から呪術は広がりを見せ、その担い手である行者の存在も確認できますが、律令政府は社会現象として呪術の広がりを警戒していました。
護命(ごみょう)の場合は、月の前半を山林修行で「自然智(じねんち)」という神秘的な呪力を得て、月の後半は元興寺(がんごうじ)で法相宗(ほっそうしゅう)を修学しました。道鏡(どうきょう)や空海(くうかい)も、山林修行により「自然智」を得たのです。
こうした験者は高く評価されていましたが、「沙石集」を著した無住(むじゅう)の目から見ると異類・異形の破戒法師とされ、天狗(てんぐ)のような存在という見方は後世まで続きました。両極の評価が存在したのです。
●大峰入峯
三論宗(さんろんしゅう)の東大寺僧であった聖宝(しょうぼう)は、真言宗に傾倒し、仏教をひろめていくための拠点を探すために名山を遊行(ゆぎょう)しました。ここで役行者を修験道の祖とすることが定まり、聖宝により行場としての大峰・吉野への入峯(にゅうぶ)行が再興されたのです。
聖宝が開山(かいざん)した醍醐寺の僧たちは大峰の入峯修行を行いましたが、それが盛んになることを危惧した醍醐寺が禁止することもありました。醍醐寺僧の入峯修行は珍しいことではなかったのです。
文永10(1273)年、太政大臣久我通光(こがみちみつ)の息子である道朝(どうちょう)が醍醐寺座主(ざす)職になることで相論が起きました。道朝は山林修行をしましたが、醍醐寺内にはそうした修験を低く評価する傾向がありました。一方、聖宝も山林修行をしたから、修験を尊重すべきであるという意識を持つ者たちもいました。こうした真言と修験のやりとりは鎌倉時代から明治時代まで続いています。
●当山方から当山派へ
当山方先達(せんだつ)が所属する寺院の中で、高野山・根来(ねごろ)寺・粉河(こかわ)寺は有力な「三ヶ寺」と呼ばれました。その中核に聖宝の御影堂(みえいどう)を擁する上醍醐寺が位置しました。
天文13(1544)年には、諸寺の先達を接点とした山臥集団の統合が図られました。
義演(ぎえん)が座主であった安土桃山時代から江戸時代の初め、醍醐寺は豊臣秀吉・秀頼、徳川家康・秀忠の援助を受け、復興を果たしました。大峰への入峯に親近感をもつ義演が門跡であった三宝院は、諸寺の先達から「本寺」と仰がれました。三宝院門跡側も、当山派棟梁としての役割を行使します。
そして、慶長18(1613)年に江戸幕府は修験道の「当山・本山」両山体制を定め、諸国の山伏が両山に属して入峯修行を行うことなどを命じました。
●聖教
聖教(しょうぎょう)は仏法の受容を語る大切な史料です。実践を専一とする修験道では、修行・法要の作法や思想が「口伝」「切紙」などで伝えられ、江戸時代以降に整備され、修験聖教が生まれたのです。
当山派で継承される恵印(えいん)法流は、龍樹(りゅうじゅ)から役行者へ伝授・相承したとされ、「上求菩提(じょうぐぼだい)」「下化衆生(げけしゅじょう)」を実現する大乗仏教に属する法流です。上求菩提で悟りの世界を目指し、下化衆生で多くの衆生を救うのです。
験道の世界では依るべき経典は存在せず、心の中で悟るとされます。また、入峯初日に授けられる聖教の「床堅(とこづめ)」は、「即身即仏の形義」「十界一如の極意」として最も重視されています。このような教えや作法が修験聖教により語られ、相承されました。