講演会/イベント

2022/12/18

講演会レポート

【12月18日】「仏都会津の仏たち」 若林 繁氏

 2022年12月18日14時より、元東京家政大学教授の若林繁先生による講演会「仏都会津の仏たち」を会場・オンライン併用で開催いたしました。

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講演会の内容

●会津の高寺

 会津の仏像で遺品が残っているのは平安時代前期からです。高寺(たかでら)という伝説的なお寺があります。高寺は奈良時代の末に滅びますが、現在は高寺山というところで発掘調査が進み、仏教の遺品も少ないながら出てきており、山の上で御祈祷、護摩を焚いていたことが考えられます。出土した土器の年代から、8世紀の奈良時代まで遡ることができます。少なくとも奈良時代には会津に仏教が伝わっていたことは間違いありません。

●平安時代の仏像

 平安時代初期の遺品が勝常寺(しょうじょうじ)にあります。仏像が12体あり、中心は薬師如来と日光・月光菩薩です。その三尊を守護する四天王像など、いずれも一木でつくられています。本尊薬師如来は欅で、膝まで含めて一材です。内側が刳(く)ってあり、腰回りは量感があります。東北の仏像彫刻で最初に国宝となった像です。

 上宇内(かみうない)薬師堂の本尊薬師如来は、平安前期と考えられる像です。薬師如来と四天王は一木造りの大きな像で、平安前期の都の影響を受け、豊かな量感があります。

 平安後期になると、都で定朝様(じょうちょうよう)という新しい様式が始まり、会津にも伝わります。典型的な定朝様の仏像が法用寺(ほうようじ)の金剛力士像で、見事な造形です。約2メートルあり、手は別材ですが、頭から足まで欅の一材です。都では檜が使われますが、この像は会津の欅でつくられ、都の様式が取り入れられているのです。

 その法用寺の本尊十一面観音は、11世紀の一木造りです。十一面観音が地方風であるのに比べて、門をまもる金剛力士はとても美しく、アンバランスといえます。本尊はもともと平安前期につくられ、平安後期に立派な金剛力士像がつくられたと考えられます。もともとの本尊は立派な十一面観音だったと思われ、火災後の再興像が現本尊とみられます。

 定徳寺(じょうとくじ)の本尊薬師如来は11世紀で、泉福寺(せんぷくじ)の胎蔵界大日如来は12世紀の仏像です。また、明光寺(みょうこうじ)の本尊は十一面観音です。

●鎌倉時代の仏像

 鎌倉時代になると、新しい仏教が会津にも入ってきます。願成寺(がんじょうじ)の本尊は阿弥陀三尊で、寄木造ではないかと思われます。来迎印を結んでいます。

 勝福寺(しょうふくじ)の不動明王と毘沙門天は弘安6(1283)年の銘があります。会津にも観音・不動・毘沙門という三尊の組み合わせがあらわれてきます。諸像はおだやかな造形です。

 薬王寺の本尊は来迎印の阿弥陀如来で、写実性を持っています。もともとは阿弥陀堂にあったようで、その阿弥陀堂の遺構が寺の下にあり、浄土庭園もあったようです。

 禅定寺(ぜんじょうじ)には典型的な鎌倉様式の地蔵菩薩像があります。京都あたりでつくられ、会津に持ってきたものだと思います。檜の寄木造で、像内は刳られています。

 成法寺(じょうほうじ)の聖観音は都の仏像様式で、応長元(1311)年および地名とお寺の名前が脚部の内側に記されています。彩色されており、截金(きりかね)も残ります。

 薬師寺の薬師如来像内には建治4(1278)年の銘文があり、典型的な田舎風の寄木です。

●南北朝時代の仏像

 南北朝時代になると、三十三応現身が出てきます。会津では三十三身が2例伝わっています。如法寺(にょほうじ)と法用寺です。如法寺の像には南北朝時代の至徳元年(1384)、法用寺の像には明徳5年(1394)の銘があります。観音菩薩の根本的な働きは危難にあった人々を救う危難救済で、その時に観音菩薩は三十三の形に姿を変えるのです。

 半蔵門ミュージアムの梵王像も見事な造形で、袖からお顔の表情も非常に優れています。

 会津における尊像の種類を通覧すると、平安時代は薬師と観音が中心です。地方で仏像がつくられる場合、人々の苦しみを救い、災厄を除くという、現実的なはたらきを求め、そういう仏様が選ばれています。また、時代が経るに従い、観音の脇に不動・毘沙門がつき、南北朝には観音の応現身と、展開が豊かになっていくのです。

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