講演会/イベント

2022/08/28

講演会レポート

【8月28日】「半蔵門ミュージアムの大日如来像と運慶」 館長 山本 勉

2022年8月28日14時より、半蔵門ミュージアム館長の山本勉による講演会「半蔵門ミュージアムの大日如来像と運慶」を会場・オンライン併用で開催いたしました。



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講演会の内容

●運慶/大日如来

 平安時代後期、藤原氏の氏寺である興福寺にかかわる造仏・修理を担当する、奈良仏師と呼ばれる人たちがいました。そのなかから生まれた仏師集団である慶派は、平安末期から京都でも活躍するようになりました。運慶の場合は、まず京都で仕事をして、次に奈良で、そして鎌倉で仕事をしたと考えられます。デビュー作として知られる円成寺(えんじょうじ)の大日如来坐像も、おそらく京都で造ったのでしょう。

 大日如来は密教の中心尊で、他の如来と異なり冠や胸飾りをつけるなど、王者の姿をしています。これは、大日如来が世界・宇宙の中心にあり、はじめから如来という考えによるものです。胸前で智拳印を結ぶ金剛界大日如来像はことに魅力的な造形です。

●足利と光得寺大日如来像

 半蔵門ミュージアムの大日如来像の話の前に、その前提となる栃木県足利市の光得寺(こうとくじ)大日如来像のことを話しましょう。足利は下野国(しもつけのくに)足利荘でした。源義国(よしくに)以来の足利氏ゆかりの地で、義国の孫義兼(よしかね)が源頼朝の縁戚として功を挙げました。鎌倉時代中期には足利氏の居館に鑁阿寺(ばんなじ)が成立しましたが、その本尊は大日如来です。

 光得寺の大日如来坐像は鑁阿寺の奥院(おくのいん)と呼ばれた樺崎寺(かばさきでら)の後身樺崎八幡宮に伝来した像で、明治初期に光得寺に移されたものです。わたしたちの調査後、1988年に重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館に寄託されています。円成寺の運慶作大日如来坐像ととてもよく似ていますが、よく見ると細部が異なり、進んだ特徴があることに気がつきます。

 光得寺大日如来の特徴の1つに、「上げ底式内刳(うちぐ)り」があります。これにより像内が密閉されるので、納入品を堅牢に像内へ籠めるうえで画期的な技法でした。横須賀市・浄楽寺(じょうらくじ)にある文治5(1189)年の運慶作阿弥陀如来像が初例です。そして光得寺像は、X線写真により、蓮台付き水晶の珠や五輪塔形木柱、人間の前歯などが像内に納入されていることが判明しました。

 また、光得寺像には厨子(ずし)があり、光背(こうはい)の周囲に三十七尊の曼荼羅像、台座に八頭の獅子が付けられていたことがわかります。この三十七尊・八獅子は、東寺講堂創建時の本尊大日如来像と同じです。円成寺像に始まる運慶の大日如来像の形が東寺講堂像を典拠としているというたいへん大きな問題です。

 そして、鑁阿寺・樺崎寺の縁起(えんぎ)には、足利義兼が理真上人(りしんしょうにん)のもとで出家し、厨子内の金剛界大日如来と三十七尊を造立したとあります。この記載内容が光得寺像にあたると思われ、初期の研究では、義兼が出家した建久6(1195)年から、義兼の没した同10年の間に製作されたと推定しました。

●半蔵門の大日如来像

 半蔵門ミュージアムの大日如来像は、現在まで数奇な運命をたどってきました。2003年にわたしの前に突然あらわれた像なのですが、個人所蔵からアメリカでのオークションをへて、2008年に真如苑真澄寺の所蔵となり、2018年から半蔵門ミュージアムで一般公開されています。

 半蔵門ミュージアム大日如来像は、脚部の衣文(えもん)など、光得寺大日如来像と酷似した点が多く見られます。しかし諸点から半蔵門ミュージアム像の方が古いのではないかと推測されます。

 また、いずれも「上げ底式内刳り」が施されています。像底には台座と接合するための金具がありますが、これは特殊なもので光得寺像と半蔵門ミュージアム像に緊密な関係があることがわかります。そしてこの金具による台座との接合法も、光得寺像の方が、より合理的な進んだ特色を有しています。

 鑁阿寺・樺崎寺の縁起の樺崎寺部分に注目すると、樺崎寺下御堂(しもみどう)に同じ日に死んだ兄弟の孝養のため三尺大日如来像を造り、建久4(1193)年11月6日の願文(がんもん)のある厨子に安置したことが記されています。この像が現在の半蔵門ミュージアム像にあたる可能性が高いのではないかと考えられるのです。

 その像内納入品もまた、光得寺像と類似しながらも、その前段階と思われる特色があります。心月輪(しんがちりん)や五輪塔の形状は変化しており、外観も像内も造仏の変遷に位置づけることができます。運慶は仏像の外側だけではなく、内側のことも考えながら造った仏師であったのです。

●最新の科学調査

 科学技術の進歩により、X線断層撮影(CT)やボアスコープ撮影の調査が可能となりました。CT画像の分析から、光得寺像は完成した状態で足利にもたらされ、そこで右腕をはずして足利義兼の歯を納入したことが推定されました。したがって像の製作は義兼の没した1199年3月直前ということになります。半蔵門ミュージアム像は、X線でも判明していた品のほかに竹製の支柱に支持された袋入りの紐束が確認されました。これらが計画的な整然とした納入状態であることから、像の製作は現地に近い場所であったと考えることができます。また、耳の孔から挿入できるボアスコープという内視鏡によると、半蔵門ミュージアム像の像内は金色で、納入品の五輪塔は彩色されていることがわかりました。これは光得寺像も同様でしょう。

●東国の運慶の再検証

 運慶は文治2(1186)年の願成就院(がんじょうじゅいん)諸像を最初として、10年近く東国の造像を続けています。この期間の後半、運慶は東国の鎌倉に滞在していたのではないかと考えています。文治5(1189)年に供養された鶴岡八幡宮寺塔の安置像や建久年間(1190~99)前半造営の永福寺諸堂の安置像は運慶がかかわっているのでしょう。

 鶴岡八幡宮寺五重塔像の安置形式に関する記録も、注目すべき史料です。それを含めて検証すると、844年の東寺講堂像を原型とした大日如来像の形は1177年完成の蓮華王院五重塔安置像に再現され、運慶が1176年に造立した円成寺像の形もそれにならっているのでしょう。1189年の鶴岡八幡宮寺塔安置像も同様だったでしょう。足利義兼の大日如来像、すなわち1193年と推定される半蔵門ミュージアム像、1199年と推定される光得寺像の形がそれを証明しています。東寺講堂型大日如来像の東国伝播はこのように整理することができるのです。

 以上、半蔵門ミュージアムの大日如来像の問題は多岐にわたります。1体の大日如来像に、これほど多くの秘密と意味がこめられているのです。

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