講演会/イベント

2022/06/25

講演会レポート

【6月25日】「ガンダーラの仏教文化 ―日本仏教の源流―」 岩井 俊平氏

 2022年6月25日14時より、龍谷大学 龍谷ミュージアム学芸員(准教授)の岩井俊平先生による講演会「ガンダーラの仏教文化 ―日本仏教の源流―」を会場・オンライン併用で開催いたしました。

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講演会の内容

●ガンダーラ地域と仏教

 釈迦の活動地域は北インドやネパールのあたりですが、ガンダーラはそこから相当離れています。仏教はここで変質して、パミール高原を越え、中国・朝鮮半島を経由して日本にも伝わりました。

 狭義のガンダーラはペシャワール盆地と周囲の丘陵地帯のみを指しますが、広義のガンダーラ(大ガンダーラ)は現在のパキスタンとアフガニスタンにまたがる広大な地域を含んでいます。大ガンダーラにはアショーカ王の時代である前3世紀頃に仏教が伝わり、前2世紀頃からストゥーパ(仏塔)の造立が盛んになりました。紀元後1~3世紀、クシャーン朝のもとで多くのストゥーパと附属施設(寺院)が建造され、仏像も大量に制作されました。6世紀頃までこの地域に仏教が栄えていたことが分かっています。

●「仏像」と「書写経典」による「仏教の化粧直し」

 紀元後1世紀頃、ブッダを人間の形にあらわすことが始まりました。また、経典を書写することが始まったのも、現在知れられている証拠からはこの頃だったと考えられます。すなわち、「仏像」と「書写経典」の誕生です。ガンダーラにおいて、この2つがセットになったのです。

 一番古い仏像は、近年ではガンダーラ北方のスワートから出土したものと考えられており、紀元後1世紀頃のものです。それはギリシャ・ローマ彫刻よりもインド彫刻の要素が強く見られます。一方で、ガンダーラの立像はコントラポストという、片膝を少し前に出すギリシャ・ローマ由来の技法が認められるので、西方の影響を受けていることも確実です。いずれにしろ、仏像の誕生はそれを祀る寺院のあり方にも変化をもたらします。仏教寺院の中心的な存在はストゥーパで、ブッダの肉身、生きたブッダとも認識されていました。その周囲に次第にさまざまな施設がつくられますが、そうした施設の中に、仏像を祀るためのお堂が登場するのです。仏像は、徐々にその重要性を増していくことになります。

 社会科の授業で習った寺院の伽藍配置を覚えていますでしょうか。飛鳥寺の伽藍配置は仏塔が中央にあり、仏像を納めた金堂が仏塔を取り囲んでいることがわかります。仏像より仏塔の方が中心にあったのです。しかし、法隆寺の伽藍配置を見ると、仏塔と金堂が横並びになっています。大きな変化です。

 また、仏教の教えの内容は、当初はすべて僧団の出家者たちが口伝していましたが、やがて経典として書写されるようになります。近年の発見により、現状で最古の経典写本は紀元後1世紀のもので、ガンダーラ語で記されていることがわかりました。仏教の経典が2世紀頃に最初に漢訳された際、その原典はサンスクリット語だったと考えている方が多いと思いますが、専門の研究者は、古い漢訳経典の原文はサンスクリット語ではない、と予想していました。近年の発見により、その原典がガンダーラ語であることが確実となったのです。

 つまり仏教は、紀元後1世紀のガンダーラにおいて、「仏像」および「書写経典」というセットを標準装備した可能性が極めて高く、いわば「仏教の化粧直し」が行なわれました。このセットは布教に際して非常に便利で、中国そして日本にもこのセットで仏教が伝わります。すなわちガンダーラの仏教が、日本仏教の事実上の源流だということができると思います。

●クシャーン朝の宗教事情

 ガンダーラ周辺で仏教が栄えていたことは事実ですが、当時のクシャーン朝の支配者層が仏教のみを庇護したという証拠は皆無です。カニシュカ王が仏教を庇護したという話は、その死後300年ほど経って作られた、漢文の仏教文献のみに登場するものです。支配者層の宗教は、火を崇めるゾロアスター教の地域的なヴァリエーションであることは確実で、カニシュカ王もそのような宗教を信仰していたらしいことが、彼が発行したコインなどから分かります。クシャーン朝では、そこにヒンドゥー教の原形となる宗教や、ユダヤ教、キリスト教、在地の神々に対する信仰など、多様な信仰が存在したはずで、仏教も多くの宗教のひとつであったわけです。いろいろな宗教が、互いに影響を与え合う状況だったのです。

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