講演会/イベント
2022/03/20
講演会レポート
【3月20日】「真如親王の夢」 館長 西山 厚
2022年3月20日14時より、半蔵門ミュージアム館長 西山厚の講演会「真如親王の夢」を開催いたしました。
●大仏開眼
出来上がった仏像に魂を入れる儀式を、開眼(かいげん)といいます。開眼することで、作り物だった仏像が仏に変わります。
東大寺の大仏は、奈良時代に聖武天皇によって造られました。開眼したのはインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)です。しかし、そののち大仏は二度も焼かれてしまい、鎌倉時代に重源(ちょうげん)上人、江戸時代に公慶(こうけい)上人によって再興された時にも、開眼がおこなわれました。それらの史実はある程度知られていますが、実はもう一度、平安時代に大仏の頭が落ち、それを元に戻した折にも開眼がなされています。その復興事業の中心にいたのが真如親王です。
明治時代以前、真実の仏教を求めて天竺(てんじく/インド)へ向かおうとした人が3人知られています。栄西(ようさい)禅師、明恵(みょうえ)上人、そして真如親王です。
このふたつの要素だけでも、真如親王がただならぬ人物のように思えてきませんか。いったいどのような人だったのでしょうか。
真如親王は平安時代初めの人で、平城(へいぜい)天皇の第三皇子です。出家する前は高丘(高岳)親王といいました。平城天皇が譲位し、嵯峨天皇が即位すると、11歳で皇太子になりました。しかし、翌年、平城上皇が都を京都から奈良に戻そうとして騒動(「薬子の変」)が起きると、皇太子をやめさせられてしまいます。
そのあと平城上皇は奈良に住み、奈良で亡くなりました。のちに平城宮の跡地の半分は真如親王に与えられ、そこに超昇寺が創建されます。
やがて真如親王は出家して東大寺に住み、道詮(どうせん)に師事して三論宗を学びました。さらに空海の弟子にもなりました。
東大寺の大仏の頭が落ちたのは855年5月23日のことでした。当時の記録には、自然に落ちたとありますが、相次ぐ地震で首の継ぎ目が弱ったのだろうと思われます。
大仏復興は真如親王が担当することになりました。真如親王は「仏事を荘厳(しょうごん)し、旧物を修理するは、功徳(くどく)を得る所、新造に勝(まさ)る」という考えのもと、官物(公費)ではなく、天下の人々に「一文の銭、一合の米」を論ぜず、無理なく協力できることをしてもらい、小さな力をたくさん集めて大仏を復興する方針を立てました。これは聖武天皇と同じ考え方で、重源上人や公慶上人にも受け継がれます。
頭が落ちてから6年後の861年に大仏の復興がなり、3月14日に開眼の法会がおこなわれました。その日は、奈良の東大寺においてだけではなく、全国の国分寺・国分尼寺でも法会(ほうえ)が開かれ、集まった人々に、なぜこのようなことをおこなうのか、その理由がしっかり説明されました。大仏開眼の前後は、生き物を殺すことが禁じられました。これらも真如親王の意向によるものです。
●唐にわたり、さらに天竺を目指す
大仏の復興がなり、開眼の儀式が終わると、真如親王は全国の山林、聖地をめぐりたいと朝廷に願い出ます。出家して40余年にもなるのに一事も成し遂げていない、残り少ない人生をそんなふうに過ごしたいというのが理由でした。そして、3月末に南海道(なんかいどう)へ赴くことが許されました。南海道とは紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐のことで、現在の和歌山県と淡路島と四国です。6月には唐へ向かって出発するので、南海道には結局行かなかったように言われていますが、高知県土佐市の清瀧寺に真如親王が滞在したという伝えがあり、南海道をめぐり始めていた可能性は十分にあると思います。
861年6月19日、真如親王は、奈良の超昇寺を出て、唐へ旅立ちます。奈良から南下した真如親王の一行は、巨勢寺(こせでら/現在の奈良県御所市)に入り、そこで20日を過ごします。同行した伊勢興房(おきふさ)の記録によれば、巨勢寺には南都の七大寺から別れを惜しんで多くの僧侶が集まり、巨勢寺から難波津へ向かった際も、数十人の僧侶がどこまでも付いてきたそうです。みんなから好かれていたんですね。
難波津から船で九州の大宰府に行き、唐の商船に乗せてもらうつもりが間に合わず、新たに船を建造します。そして9月3日、総勢60人で唐へ向かいました。この時、真如親王は64歳でした。航路は順調で、4日後の7日に明州(現在の寧波)に着きました。そのあと越州、杭州、揚州、泗州、洛陽などを経て長安に入りましたが、真如親王は、唐には自分の師である道詮におよぶ人はいない、唐では仏教の疑義を解明できないという結論に達します。
そこで、天竺(インド)へ行く許可をもらい、日本から一緒に来た大半の人々を帰国させ、真如親王を含む4人で広州から天竺へ向かって船出しました。真如親王の消息はそこで途絶えます。
やがて、真如親王が羅越(らえつ)国で亡くなったという情報が伝えられました。羅越国とは、現在のシンガポールあたりです。ずっとのちになってから、虎に食べられたと言われるようになりますが、信憑性はまったくありません。病気で亡くなったのでしょう。
澁澤龍彦さんの『高丘親王航海記』は、フィクションですが、かえってそれゆえに真如親王の真実に迫ることができた傑作です。この本では、病んで死期の近いことを悟った真如親王が、羅越国と天竺を往復する虎にみずから進んで喰われ、虎の腹の中に入って天竺に至ろうとする、驚きの結末となっています。
●源実朝の妻の置文
1219年、鎌倉幕府三代将軍の源実朝は鶴岡八幡宮で暗殺されました。28歳でした。実朝には27歳の妻がいました。彼女はそれからどうなったのでしょうか。53年後、80歳になった彼女は、ふたたび歴史の表舞台に登場します。80歳の彼女が書いた「置文(おきぶみ)」(遺言)には、真如親王が登場します。真如親王は天竺へ向かう途中に亡くなった。真如親王が命を忘れて仏法をひろめようとしたのは利益衆生(生きとし生けるものを幸せにする)のためである。真如親王は三論宗の僧侶。だからこの寺では三論宗を学ぶべきであり、生まれ変わっても利益衆生をめざしていきたい。亡くなって400年後、このような女性が現れたことを知れば、天竺に至る夢は実現しませんでしたが、真如親王の亡き魂もきっと癒されることでしょう。喜びも悲しみもみんな夢のなか。