講演会/イベント
2021/12/11
講演会レポート
【12月11日】「両界曼荼羅のみどころ ~色・形など~」 有賀 祥隆氏
2021年12月11日14時より、東北大学名誉教授 有賀祥隆先生の講演会『両界曼荼羅のみどころ ~色・形など~』をオンラインで開催いたしました。
講演会の内容
●半蔵門ミュージアムの曼荼羅について
半蔵門ミュージアムに展示されている両界曼荼羅は、江戸時代の宝永3年(1706)に描かれたものですが、裏書を見ると描かれた理由がわかります。醍醐寺の金剛王院に伝来していたもので、筆者は覚仙(かくせん)、俗名が隆栄(りゅうえい)と記されています。この隆栄が醍醐寺にいたかどうかはわかりませんが、白山の開基といわれる泰澄(たいちょう)を隆栄が描いた像が醍醐寺に残されています。それは宝永4年ですので、両界曼荼羅の一年後です。東寺と同じように、醍醐寺にも絵所があったのかもしれません。
曼荼羅の「マンダ」は本質や醍醐、「ラ」は〇〇を持つものという接尾語です。本質や醍醐を持つものということです。玄奘以前の旧訳では「壇」、玄奘以降の新訳では円輪具足という意味になります。
●両界曼荼羅の成立と展開
両界曼荼羅が成立する以前、密教ができる以前にも曼荼羅がありました。両界曼荼羅の原型のような形がつくられていたのです。それらは雑密(ぞうみつ)経典による曼荼羅とされ、両界曼荼羅は純密(じゅんみつ)経典による曼荼羅ということができます。
両界曼荼羅は金剛界と胎蔵界からなります。まず、『大日経』(だいにちきょう)が成立しますが、これは善無畏(ぜんむい)が口述して、一行(いちぎょう)が記しました。中部インドのナルマダー河流域で7世紀中頃に成立したのです。一方、『金剛頂経』(こんごうちょうきょう)は金剛智(こんごうち)や不空(ふくう)が訳をしていますが、南インドのキストナー河流域で7世紀末~8世紀初めに成立しました。
そして、『大日経』にもとづいて描かれたのが胎蔵界曼荼羅で、本来は大悲胎蔵生曼荼羅(たいひたいぞうしょうまんだら)です。現象界の理法、真理をあらわすとされています。また、『金剛頂経』にもとづいて、精神界の智的構成を描いているのが金剛界曼荼羅ということになります。
両界曼荼羅は、現象界の統一を理想とする「理智不二」(りちふに)の密教的世界観を示したもので、長安・青龍寺の恵果(けいか)が、不空から金剛頂経の密教を授かり、さらに善無畏の弟子玄超(げんちょう)から大日経系の蘇悉地経(そしっちきょう)系の密教をも受けました。恵果は弘法大師空海の師匠です。恵果が胎蔵界と金剛界をひとつにして、それを入唐した空海が受け、日本に持ち帰ったのです。
●両界曼荼羅の構成と種類
空海が恵果から授けられ、請来した系統の両界曼荼羅は現図曼荼羅と呼ばれます。我々が目にする90%以上は現図曼荼羅です。
胎蔵界曼荼羅は三重あるいは四重構造で、十二院で構成されています。また、上が東という方角になります。中央は中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)です。持明院(じみょういん)に描かれている不動明王は、大日如来が怒った変化神(へんげしん)ですが、ただ怒っているのではなく救い上げようとしているのです。胎蔵界には409尊があらわされています。
金剛界曼荼羅は上が西で、等分にした九会(くえ)の曼荼羅で、真ん中の成身会(じょうじんえ)だけでも成立します。上方の三つのうち、四印会と一印会は大日如来が主尊ですが、理趣会(りしゅえ)は金剛薩埵(さった)が主尊となります。右の三つは金剛薩埵系が並んでいます。
また、天台系には金剛界八十一尊曼荼羅が伝わっています。根津美術館にあるものは平安初期の色合いですが、平安末から鎌倉初期と思われます。象や孔雀などに乗っているところも特徴的です。
そして、胎蔵界曼荼羅には空海請来、円仁請来、円珍請来という三種類があります。同じように見えますが、違うところがあるのです。東寺には宮中の真言院で使われていたというものがありますが、現在は西院で使われたと考えられています。空海請来の現図曼荼羅の系統で、最外院(さいげいん)が整理整頓されています。千手観音や金剛蔵王菩薩の下には何も描かれていません。
一方、円仁請来の系統である四天王寺のものは、最外院の諸尊が少し窮屈で、千手観音と金剛蔵王菩薩の前には供養台が描かれています。また、円珍請来の系統である園城寺のものは、最外院がぎゅうぎゅう詰めで未整理という違いがあるのです。