講演会/イベント

2021/04/24

講演会レポート

【4月24日】「日本浄土三曼荼羅―智光曼荼羅・當麻曼荼羅・清海曼荼羅について―」 髙橋 平明氏

2021年4月24日14時より、元興寺文化財研究所の髙橋平明(なりあき)先生を講師にお迎えし、半蔵門ミュージアム講演会『日本浄土三曼荼羅 ―智光(ちこう)曼荼羅・當麻(たいま)曼荼羅・清海(せいかい)曼荼羅について―』を開催いたしました。

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講演会の内容

●阿弥陀信仰と浄土教

 浄土とは「清浄国土」の略ですが、「西方阿弥陀極楽浄土」を指すことが一般的です。その極楽浄土の教主は阿弥陀如来で、紀元前後のインドにおいて阿弥陀如来は釈迦如来の再来とされました。また、浄土教の所依の経典は「浄土三部経」で、特に注目したいのは観無量寿経です。『日本書紀』によりますと、推古朝には無量寿経が伝来していたようです。

 そして、天平時代中ごろに浄土信仰は亡者の「追善・追福」から「往生極楽」へと変化していきます。

●浄土三曼荼羅

 平安時代になると、頻発する社会不安から阿弥陀浄土信仰が広く浸透していきます。

 「浄土三曼荼(陀)羅」の初出は室町時代の浄土僧西誉聖聡(せいよしょうそう)が著した『當麻曼陀羅疏』で、第一は智光曼荼羅、第二は當麻曼荼羅、第三は「超昇寺曼陀羅」すなわち清海曼荼羅としています。

 ①智光曼荼羅の存在は嘉祥元年(1106)成立の大江親道『七大寺日記』が初見です。寛和二年(986)に慶滋保胤(よししげやすたね)が最初の往生伝『日本往生極楽記』を編撰しますが、そのなかに智光が感得した極楽浄土図のことがみえます。

 院政期には、浄行(業)「功徳往生」から「念仏往生」を経て、法然による善導「無量寿経疏」中の「称名念仏」発見へと展開していきます。②當麻曼荼羅の存在は、興福寺実叡による建久二年(1191)の『建久御巡礼記』が初見です。

 ③清海曼荼羅は、実叡の『建久御巡礼記』「超昇寺(ちょうしょうじ)」の条に「本尊ノ極楽ノ変ノ曼陀羅オハシマス」とあるのが初見です。超昇寺は真如親王が父平城天皇を弔うために建立した寺です。また、下辺中央にある八行八字の銘文から、長徳二年(996)成立とみられます。四辺に蓮華を描き、「観無量寿経」の「十六観」の四句頌文を向かって右上から時計回りに記しているので、「観経変相図」の一種といえます。

●清海曼荼羅

 浄土三曼荼羅のうち、①智光曼荼羅は板絵彩色で原本は「一尺四方」、②當麻曼荼羅は綴れ織り=刺繍で法量は「二丈五尺四方」、③清海曼荼羅は紺色絹地金銀泥描で法量は縦六尺・横四尺ほどという違いがあります。

 共通点としては、中央部の内容構成が虚空・宝楼閣・華座(三尊会)・宝樹・宝池・宝地 で、これらは「観相行」を進めるためのものです。また、阿弥陀如来像は右肩を露見して、説法印相(智光曼荼羅は合掌印(未開敷蓮華))で、胸に卍字をあらわしています。飛天や奏楽菩薩も描かれています。なかでも②當麻曼荼羅は諸尊の数が多く、内容が豊かで、最も完備した浄土図といえるでしょう。

 そして、③清海曼荼羅は金銀泥の線描を中心としたものです。注目したいのは宝楼閣で、その建築図容には中国・唐代の要素を指摘することができます。(イ)鴟尾(しび)の形式は「拒鵲(きょせき)鴟尾」で、頂部に金串を挿していますが、7世紀後半の国内出土例があります。(ロ)垂木の形式について、地垂木の断面が円形、飛檐(ひえん)垂木の断面が四角で、東大寺転轄門や室生寺五重塔などにみられるのです。(ハ)「人」字形の割束(わりつか)は、再建法隆寺金堂高欄の意匠として有名です。

 浄土三曼荼羅の図容は、いずれも中国・唐代に由来して奈良時代の後半には成立していたとみられます。鎌倉時代に法然上人が「称名念仏」を善導大師の「観無量寿経疏」に見出して浄土宗を立てたところから、當麻曼荼羅を中心として「浄土曼荼羅」への関心が高まりました。また近世の元興寺近辺は、浄土曼荼羅信仰・説話の拠点のひとつといえます。

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