講演会/イベント
2019/09/08
講演会レポート
【9月8日】「関東大震災と画家―堅山南風を中心に―」 島田 康寬氏
9月8日、半蔵門ミュージアム3階ホールにて、美術史家・美術評論家の島田康寬先生による講演会『関東大震災と画家―堅山南風を中心に―』を開催いたしました。島田先生は、京都国立近代美術館学芸課長、立命館大学教授、神戸市立小磯記念美術館館長をつとめられた方です。
講演会の内容
●関東大震災と美術界への影響
大正 12 年 9 月 1 日、11 時 58 分頃に発生した相模湾を震源とする大規模な地震は、南関東地方に甚大な被害をもたらしました。この震災は火災による犠牲者が最も多かったのですが、それは地震発生時刻が昼食の時間帯と重なっただけでなく、日本海沿岸を北上していた台風の影響で関東地方に強風が吹き込み、密集していた木造住宅に火災が燃え広がったためと考えられています。震災当日には、上野で二科会展と日本美術院展が開催されていましたが、地震発生後、直ちに展覧会は中止となりました。南風自身も、院展の会場から帰宅後に自宅で被災しています。震災により作品を失った画家や、落命した画家など、関東大震災は少なからず美術界にも爪痕を残したのでした。
●大震災を描きとめた画家たち
震災後、在京の徳永仁臣、河野通勢などは翌日から、池田遙邨と鹿子木孟郎は20日後に京都を発ち、被災地を描きとめようと現場を訪れています。崩れ落ちた「浅草十二階」、ドームを失った「ニコライ堂」、傷病者の救助や赤十字の活動の様子などが、多くのスケッチや作品という形で記録されています。しかしながら、殺伐とした空気の中での写生は、身の危険を覚悟しなければならないものでした。遙邨は、罹災者からの罵声を浴びることや、写生をしている足元へ瓦が投げられることもあったと回顧しています。
●堅山南風について
南風は、本名を「熊次」といい、明治20(1887)年9月21日、熊本市に生まれました。南風は苦労の絶えない幼少期を経験しています。満年齢で1歳の時に落雷により母を、6歳の時には病で父を亡くしており、その後は祖父の元で過ごしましたが、17歳の時に生家が破産し、9月には養育を受けていた祖父までも失っています。南風は、明治38(1905)年頃、図書館へ足を運び、毎月のように『日本美術』『國華』を見に行くようになりました。翌年には地元の画家から絵を学び、明治42(1909)年には同郷の山中神風に同行し、上京します。その車中で『十八史略・堯舜編(南風之詩)』に因んで「南風」を号することになりました。そして、大正2(1913)年の第7回文展に「霜月頃」が初入選、横山大観の推薦もあって最高の2等賞を受賞し、翌年にはスポンサーとなった細川護立の口添えで、念願の横山大観に師事するのでした。その後、南風は花鳥画や人物画などに多くの優作を残し、昭和43(1968)年には文化勲章を受章しています。昭和55年12月30日逝去。
●堅山南風『大震災実写図巻』
上巻・中巻・下巻の三巻で構成された『大震災実写図巻』は、大地震の「前兆」からはじまり、最後の「大悲乃力」まで31の図を描いた関東大震災の記録です。南風は、震災から2年後の大正14(1925)年にこの作品を制作しています。震災から2年が経過して尚、震災の惨状を描こうとすると、筆が渋って手を動かすことができない中にも「観世音菩薩」に護られ、漸く描き終えたことを序文に記しています。最後の31図目には「観世音菩薩」の絵とともに『妙法蓮華経観世音菩薩品第二十五偈』の一部が引用されております。南風は前述したように、苦労の絶えない幼少期を過ごしました。自身の苦難の経験と、関東大震災とを重ねながら描きとめたのかも知れません。