講演会/イベント

2019/08/11

講演会レポート

【8月11日】「叡尊(えいそん) こんな人がいた!」 館長 西山 厚

 2019年8月11日14時より、半蔵門ミュージアム館長 西山厚の講演会『叡尊(えいそん) こんな人がいた!』を開催いたしました。



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講演会の内容

●「興法利生」

 西大寺というお寺が奈良にあります。東大寺を建立したのは聖武天皇と光明皇后ですが、西大寺を建てたのは、その愛娘である阿倍内親王(あべのないしんのう)です。阿倍内親王は孝謙天皇(のち称徳天皇)になります。西大寺には四王堂(しおうどう)という四天王をまつる建物があります。堂内の四天王はのちに改めてつくられた像ですが、その四天王が踏んでいる邪鬼(じゃき)は孝謙天皇当時のものです。奈良時代、一番大きな寺院は東大寺、二番目は西大寺で、都の東西にある大寺(おおでら)でした。その後、東大寺が興隆していく一方、西大寺は衰退します。鎌倉時代になり、その西大寺を復興したのが叡尊(1201~1290)というお坊さんです。

 平安時代から鎌倉時代にかけては激動の時代で、末法の時代と呼ばれていました。そうした時代に生きた叡尊は、没後に「興正菩薩(こうしょうぼさつ)」という称号を与えられました。「正法(しょうぼう)」すなわち正しい仏教を、「興隆」させようとしたお坊さんなのです。叡尊の自伝によりますと、7歳のときに母親が亡くなりました。その翌年、貧困のために別の家に預けられ、また醍醐寺の関係者に預けられたことから、醍醐寺のお坊さんになります。のちに、正しい仏教を盛んにすることにより皆を幸せにする、「興法利生(こうぼうりしょう)」に力を入れていきます。



●叡尊の活動

 叡尊は34歳のときに、戒の大切さに気が付きます。翌年、東大寺に住む尊円(そんえん)が勧進(かんじん)をして、戒を守る僧を西大寺に6人置こうとした際、叡尊一人だけが応募しました。このときに西大寺に入ったのです。しかし、師にあたる僧侶たちは戒を守らない人たちばかりでした。 

 そこで叡尊は、人間である師僧に誓うのではなく、仏さまに誓い仏さまから受戒する「自誓受戒(じせいじゅかい)」に取り組みました。この活動を始めていきますが、すぐに迫害を受けてしまいます。これに対して叡尊は、「五濁悪世(ごじょくあくせ)においてもっとも苦しんでいる人たちを救おう、そのためなら地獄の苦しみにも耐えよう」と決意し、たとえばハンセン病の人たちを救う活動を始めます。これは叡尊が45歳のときに立てた誓いで、その功徳を亡き母に廻向しようと考えたのです。

 西大寺の本尊は釈迦如来像です。昭和30年代に解体修理が行われた際、お顔のなかに袋が入っていることがわかり、「悲華経(ひけきょう)」が袋に納入されていました。浄土へ行かずに苦しんでいる人々を救おうとしたお釈迦さまのように、今度は自分たちがその行いをしていこう、と立ち上がったことを意味します。そうした叡尊の活動により西大寺は復興していきました。

 有力者から荘園寄進の申し出もありましたが、叡尊は断りました。たくさんの人々が少しの田畑やわずかなお金を寄付しましたが、それにより叡尊が新しく建立した寺院や修復した寺院はおよそ700にのぼったのです。そうした叡尊を慕うお坊さんも、全国から西大寺に集まってきました。



●叡尊像

 西大寺には叡尊そっくりの像があります。生前の80歳につくられた、叡尊そのもののような像です。その像内には経典と名簿が納められていました。名簿は叡尊の弟子1548名の名前で、41%が女性でした。さらに、頭の内部には、ぐるぐる巻かれた銀の針金が取り付けられていました。仏さまには額に白毫(びゃくごう)があります。人間叡尊にはもちろん白毫はありませんが、弟子たちは師を仏さまのような姿で表現したかったのでしょう。

 叡尊は90歳で亡くなりますが、その日の朝に「ひとりで始めたことが、ここまで広がるとは思わなかった」と語っています。「興法利生」の信念を90年間貫いた人でした。



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